見えない津波の脅威にAIで備えるMulti-Sigma®の未来予測

2025年7月30日、日本中のテレビが緊迫した情報で埋め尽くされました。ロシア・カムチャツカ半島沖で発生したマグニチュード8.8の巨大地震。それに伴う津波が、日本の沿岸に到達するというのです。
長時間にわたって伝えられる特番報道は、日本中に静かな緊張を走らせました。幸いにも物理的な被害は限定的でしたが、交通機関の乱れや一部店舗の休業といった経済的な影響、そして何より、多くの人々の脳裏に東日本大震災の記憶を呼び起こし、「備え」の重要性を再認識させるには十分すぎる出来事でした。
世界に目を向けると、2004年のスマトラ島沖地震、1960年のチリ地震、1964年のアラスカ地震のように、巨大地震が引き起こす津波は、繰り返し甚大な被害をもたらしてきました。未来に目を向ければ、日本では南海トラフ巨大地震や首都直下地震といった大規模な災害が予測されています。この脅威は日本だけにとどまりません。例えば、米国地質調査所は、カリフォルニア州のサンフランシスコ・ベイエリアで今後30年以内にマグニチュード6.7以上の地震が発生する確率を72%と予測しており、台湾やニュージーランドといった他の環太平洋諸国にも同様のリスクが迫っています。このことは、地震に起因する津波の潜在的な脅威が、今なお続いていることを浮き彫りにしています。
より質の高い「備え」のため、事前に津波の動きをコンピュータで予測する。その必要性は誰もが認めるところでしょう。しかし、そのシミュレーションの実行には大きな壁が存在しています。
シミュレーションを阻む「3つの壁」
高精度な津波シミュレーションは、避難計画策定のまさに心臓部です。しかし、その実行には、大きく分けて3種類の根深い壁が立ちはだかっています。
- 壁①:「リソース」の壁(時間とコスト)
まず、圧倒的な時間と計算コストが要求されます。一つの条件下でのシミュレーションに、高性能コンピュータを使っても半日かかるのは珍しくありません。起こりうる無数のシナリオを検証しようにも、仮に1000回の計算を実行すれば500日もの歳月が必要になります。
- 壁②:「スキル」の壁(高度な専門知識)
次に、実行できる人間が極端に限られるという問題があります。シミュレーションの実行にはLinux等の専門的なOS環境の構築、無数のコマンドによる関連ライブラリのインストール、専用シミュレータの操作など、高度な専門知識が必要です。
- 壁③:「属人性」の壁(技術継承と組織のリスク)
そして、この高度なスキルが特定の人間に集中した結果、深刻なリスクが生まれます。その貴重な専門家の異動や退職は、即座に組織の分析能力の低下に直結します。ノウハウは個人に紐づき、組織の資産として蓄積・継承されにくい。 これは、あらゆる組織が直面する、事業継続に関わる経営リスクと言っても過言ではありません。
この「リソース・スキル・属人性」という三重苦は、防災分野に限りません。製造業の製品開発、金融市場の予測など、シミュレーションが価値を生む全ての現場に共通する、根深い課題なのです。
その三重苦を、AIはどう乗り越えるのか?
この膠着状態を打ち破る鍵は、AIの活用にあります。しかし、ただAIを導入するだけでは、この複雑に絡み合った課題は解決しません。解決への道筋は、2つのステップで描かれます。
- 【ステップ1】 サロゲートモデルが「リソース」の壁を破壊する
まず、AIによってシミュレーションそのものを代替する「サロゲートモデル」という画期的なアプローチがあります。
これは、本物のシミュレーションの「代理(Surrogate)」として振る舞うAIモデルです。少数のシミュレーション結果を学習させるだけで、AIはその背後にある法則性を学び取り、未知の条件下での結果を瞬時に予測します。
これまで500日かかっていた計算が、数十分で終わる。サロゲートモデルは、シミュレーションにおける「リソース(時間とコスト)」という絶対的な制約を、まさに破壊するゲームチェンジャーなのです。

シミュレータの出力を学習させてサロゲートモデル(AIモデル)を作成する
- 【ステップ2】 Multi-Sigma®が「スキル」と「属人性」の壁を取り払う
しかし、これだけではまだ不十分です。サロゲートモデルを構築すること自体に、通常はAIやプログラミングといった、また別の高度な専門知識が求められます。これでは「スキル」と「属人性」の壁は、形を変えて残ったままです。
この最後の、そして最大の障壁を取り払うのがMulti-Sigma®です。
プログラミングを一切必要とせず、マウス操作だけで直感的にデータを分析できるため、現場の担当者自身の手で、この強力なサロゲートモデルを簡単に構築することが可能になります。
つまり、専門家が実行した限られたシミュレーション結果を、現場の誰もが「サロゲートモデル」という形で活用できるようになる。これにより、「専門家の知見」は組織全体の資産となり、属人化という長年の課題にも終止符が打たれるのです。
Multi-Sigma®によるサロゲートモデルの構築は、現場が抱える3つの壁すべてに対する、現実的で強力な処方箋となります。
Multi-Sigma®は、いかにして複雑な現実問題を解き明かすか?
論より証拠。巨大津波のリスクが指摘されるパキスタン沖のマクラン海溝を舞台に、Multi-Sigma®が複雑な津波予測に挑むプロセスをご覧ください。


図2:マクラン海溝の位置と津波シミュレーションの結果
ここでは、わずか数十件の津波シミュレーション結果を学習データとして使用します。入力条件として、震源の経度・緯度、津波の初期の高さを変動させました。図3は、ある特定の観測地点における津波シミュレーションの結果です。

横軸が時間、縦軸が海面の高さ
- STEP 1:震源のばらつきが比較的小さい場合 (100km × 100km)
震源が約100km四方の範囲で変動する条件で、Multi-Sigma®にサロゲートモデルを構築させました。特定の観測地点でのシミュレーションによる海面の変動を一定時間間隔でサンプリングしたデータを学習データとしてMulti-Sigma®でAIモデルの学習を行いました。

そのAIモデルを使い、学習データには含まれていない震源の経度・緯度、津波の初期の高さによる海面の変動の予測を行いました。その結果、図5のように、津波シミュレーションの結果(青線)と、Multi-Sigma®の予測(赤線)はほぼ完全に一致しました。

限定的な条件下で極めて高い予測精度を発揮
- STEP 2:現実の壁。震源のばらつきを拡大 (300km × 200km)
次に、震源のばらつきを約300km × 200kmという、より広大で現実的な範囲に広げました。すると、予測精度は低下し、シミュレーション結果(青線)と予測(赤線)の間に無視できないズレが生じてしまいました。

複雑な条件下では正確な予測が困難に
- STEP 3:データの前処理による飛躍的な精度向上へ
ここで私たちは、10成分の関数主成分分析という前処理をデータに施し、その特徴量データを改めてMulti-Sigma®に学習させました。この「翻訳」作業によって、AIはデータの背後にある本質的な特徴をより学習しやすくなります。その特徴量データを改めてMulti-Sigma®に学習させた結果、予測のズレは解消され、広範囲で複雑な条件にもかかわらず、再び高い予測精度を取り戻しました。

適切な前処理により複雑な条件下でも精度が向上
高度な予測分析をあなたのビジネスの現場へ
Multi-Sigma®は、シミュレーションの常識を塗り替えます。津波シミュレーションで示したこの力は、あらゆる産業分野に応用できます。
- 【製造業】
自動車の衝突解析や電子機器の熱流体解析。数千パターンの設計パラメータをサロゲートモデルで瞬時に試し、開発期間とコストを劇的に圧縮します。
- 【化学・素材】
新素材開発における分子シミュレーション。膨大な化合物の組み合わせから、目的の物性を持つ候補をAIが高速にスクリーニングします。
- 【金融・経済】
複雑な経済モデルをサロゲートモデル化。金利や政策の変動が市場に与える影響をリアルタイムに評価し、より強固なリスク管理を実現します。
Multi-Sigma®は単なるツールではありません。それは、一部の専門家と現場の担当者を隔てていたスキルの壁を取り払い、誰もが高度なシミュレーションを活用できるようにするソリューションです。専門家の知見を組織全体の資産に変え、予測不能な時代を勝ち抜くための「備え」を、私たちと共に構築しませんか。
共同研究や国の研究プロジェクトへの共同申請も歓迎しますので、ご気軽にお問い合わせ下さい。
(参考)
Gaussian Process Regression for Ionosphere-Based Tsunami Warning and Functional History Matching
https://discovery.ucl.ac.uk/id/eprint/10204193