「脱溶剤か、品質か」をやめる。配合から印刷品質までをつなぐAI連鎖解析
スーパーでお菓子の袋を手に取ったとき、その鮮やかな印刷がどう作られているか、想像したことはあるでしょうか。実は包装フィルムの印刷では長らく、シンナーに似た有機溶剤で溶かしたインキが主流でした。刷ったあと、溶剤は蒸発して大気へ。つまり、きれいな袋が作られる一方で、大気汚染のもとになる揮発性有機化合物(VOC)とCO₂が出続けてきたのです。
いま、この構図が変わりつつあります。きっかけのひとつは原料問題です。2026年前半、中東情勢を発端に、石油化学の基礎原料であるナフサの調達が大きく混乱しました。価格は初夏には危機前の水準まで戻りましたが、国内のエチレン生産設備の稼働率は6月時点で66.5%と、統計のある1996年以降で最も低い水準に沈んだままです。これが重要なのは、溶剤系インキに使う溶剤をはじめとする原料の多くが石油化学の下流にある製品で、供給網をたどると、最終的にはナフサや、ナフサから作られるエチレンなどの基礎化学品に行き着くからです。しかも国内では大手化学3社が、2030年度を目途に西日本のエチレン設備を1拠点へ集約することで合意しており、供給能力そのものは今後細っていきます。一度の地政学リスクで調達網が揺らぎ、平時の余力も減っていく。溶剤に頼り続けること自体が、経営上のリスクになってきました。
受け皿として世界で進んでいるのが、水で溶いたインキを、柔らかい「大きなはんこ」のような版で刷る水性フレキソ印刷です。ラミネートの工程まで含めて溶剤を使わない方式に切り替えると、従来の油性グラビア方式に比べて、パッケージを作るときのCO₂を約半分に減らせるという試算もあります。欧州では包装印刷の約6割、米国では約8割がすでにこのフレキソ方式。一方、日本を含むアジアは約8割が従来のグラビア方式のままです。裏を返せば、日本にはまだ大きな伸びしろがあるということです。
それでも水性化が進まない理由は「品質の壁」
「水性に切り替えたら、色が薄い。ムラが出る。フィルムからインキが剥がれる」
現場でよく聞く声です。水は油より表面張力が高いため、プラスチックフィルムの上ではじかれやすい。乾きも遅い。だから溶剤系と同じ感覚で作ると、品質が総崩れになります。
やっかいなのは、原因がひとつではないことです。インキのレシピ(顔料・樹脂・添加剤)がインキの性質(粘度・表面張力など)を決め、その性質が印刷条件(インキの量、速度、印圧、乾燥温度)や基材の種類と絡み合って、最後の品質(色の濃さ・ムラ・密着)が決まります。工程が数珠つなぎで、しかも要素同士が複雑に影響しあう。従来はベテランの勘と試作の繰り返しで乗り切るしかない世界でした。
さらに、もうひとつ壁があります。レシピのデータはインキメーカーのラボに、印刷条件のデータは印刷会社の現場にあります。つまりデータが会社ごと、工程ごとに分断されているのです。「このレシピで刷ったら、この品質になった」と最初から最後まで通してつないだ記録は、ほとんどの場合、存在しません。
発想の転換:工程ごとのAIを「のりしろ」でつなぐ
そこで登場するのが、Multi-Sigma®の連鎖解析です。考え方はシンプルで、工程ごとに担当のAIを作り、それを鎖のようにつなぎます。
- 配合AI:レシピから、インキの性質を予測する
- 印刷AI:インキの性質・印刷条件・基材の種類から、印刷の品質を予測する
配合AIの答えを、そのまま印刷AIに渡す。それだけで「レシピを決めたら、最終的にどんな刷り上がりになるか」を刷らずに見通せる一本の道ができあがります。
鍵は、2つのAIの間にあるインキの性質が「のりしろ」になることです。配合AIはラボの実験データだけで、印刷AIは印刷機のデータだけで、それぞれ別々に学習させれば済みます。通しでつないだ記録は要りません。分断されたままのデータをまたげること。これが連鎖解析のいちばんの強みです。しかも、つないだあとは予測だけでなく、原因の特定も、「欲しい品質から逆算する」こともできます。

【実演】水性フレキソインキの開発を、人工データで再現する
ここからは実演です。物理的にもっともらしい関係式からコンピュータでデータを作り、その上で一連の流れを再現します(数値はすべて例示であり、実際のお客様の実績ではありません)。ラボの配合実験60件と、印刷機の実績400件を、わざと別々に用意しました。
ステップ1:2つのAIを別々に育てる
Multi-Sigma®には、データが少ないときに強いガウス過程回帰と、データが多く関係が複雑なときに強いニューラルネットワークの2種類のAIが入っており、使い分けられます。今回もその流儀に従いました。
データが60件しかない配合AIには、ガウス過程回帰。少ないデータでも学習でき、しかも「この予測にどれくらい自信があるか」を幅で示せるのが持ち味です(図2)。一方、印刷AIには400件のデータを活かせるニューラルネットワークを使い、5つの品質を同時に予測させました(図3)。適材適所の役割分担です。
ここで「総合品質」の中身も書いておきます。印刷AIが予測する5つの品質(色の濃さ、網点の太り(ドットゲイン)、密着、光沢、ムラ)それぞれに「不合格ライン」と「目標値」を決め、どこまで目標に届いているかを0から1の達成度に直します。たとえば色の濃さ(光学濃度)なら、0.90が不合格ライン、1.45が目標です。不合格ラインちょうどで0.1、目標ちょうどで0.9になる、なめらかな換算です。この5つの達成度を同じ重みで掛け合わせて平均し(幾何平均)、100点満点にしたものが総合品質スコアです。掛け合わせるので、どれか1つでも悪いと点数が大きく下がります。「全部そろって初めて良い製品」という現場の感覚に合わせた作りで、実際の開発では、重視する品質に重みを付けることもできます。


気になるのは「本当に当たるのか」でしょう。予測と実際の一致度を示すR²という指標(1.0なら完璧)で見ると、配合AIは0.93以上、印刷AIは0.93から0.96。そして2つをつないだあとでも、総合品質の予測でR²=0.91を保ちました(図4)。この実演の中では、刷らずに先を読める精度です。

ステップ2:不良の犯人は、どちらの工程にいるのか
連鎖解析のもうひとつの強みは、間にあるインキの性質が見えるからこそ、不良の原因が「レシピ側」なのか「印刷条件側」なのかを切り分けられることです(図5)。
今回の例では、光沢の73%、ムラの73%、密着の64%がレシピ側で決まっていました。つまり印刷機をいくら調整しても限界があり、レシピに手を入れるべき品質です。逆に網点の太りは64%が印刷条件側で、なかでも印刷速度の影響が最大でした。色の濃さはインキ量と顔料の合作。そしてVOCは、動かす影響の9割を共溶剤ひとつが占める、とても素直な指標でした。
部門間で「どっちの責任だ」と押し付け合っていた議論が、これで数字として決着します。

ここで面白いことが起きます。図6を見てください。左は、配合の他の項目と印刷条件を平均的な値に置いたまま、共溶剤だけを減らした場合。VOCはきれいに下がっていきますが、品質は10点ほど落ちてしまいます。「脱溶剤は品質を犠牲にする」という現場の実感そのものです。
ところが右、界面活性剤をしっかり効かせたAIの推奨レシピ(印刷条件も推奨値)の上で同じことをすると、共溶剤をほぼゼロまで減らしても品質はほとんど落ちません。共溶剤が下げていた表面張力を、界面活性剤が代わりに下げてくれるからです。平均的な条件のまま共溶剤だけを減らすと品質が落ちるので、一つずつ試すやり方では、そこで脱溶剤をあきらめてしまいがちです。ひとつずつ動かして探す従来のやり方では、たどり着きにくい組み合わせがあるということです。

では、左から右への品質の改善は、どの項目のおかげなのでしょうか。項目同士が影響しあう場合、1項目ずつ入れ替えて比べるだけでは、入れ替える順番によって答えが変わりえます。そこで、Multi-Sigma®の寄与度分析と同じ方法を使いました。各項目の範囲を、左の条件から右の推奨レシピまでに設定し、その範囲の中の多数の点で、各項目を少しだけ動かしたときに品質がどちら向きに、どれだけ動くかを調べて、全項目の合計が100%になる割合で示します(図7)。品質を動かす影響の半分以上(AIの予測で約5割、答え合わせで約6割)が界面活性剤で、残りの多くは顔料と乾燥温度でした。

ステップ3:欲しい品質から、レシピを逆算する
最後は逆向きの問題です。つないだAIを使い、遺伝的アルゴリズム(生物の進化をまねて良い組み合わせを探す手法)で「品質は高く、VOCは低く、コストも安く」の3つを同時に狙い、レシピ6項目と印刷条件3項目をまとめて探索しました。印刷速度と基材は生産の都合で固定しています。
結果が図8です。120通りの候補が並んでいますが、これらは「どれかを良くすると、どれかが犠牲になる」ぎりぎりの線上にある解たちです。1つの答えではなく、選択肢の地図が手に入るわけです。

注目はAIの推奨レシピです。VOCを15 g/L以下に抑える条件で、AIが最も品質が高いと予測したレシピ(赤丸)は、品質81・VOC 10 g/Lでした。同じレシピを「本当の計算式」で答え合わせすると(赤い四角)、品質78・VOC 14 g/Lで、原料コストは452円/kgです。従来の溶剤系(品質76・VOC 550 g/L・460円/kg)と比べると、品質は同等以上、VOCは約40分の1、コストも少し安いという結果になりました。勘と経験で置いた最初の水性レシピ(AIの予測で品質61・VOC約60 g/L)からも大きく前進しています。
「脱溶剤か、品質か」という二者択一は、探し方が足りなかっただけ。両立するレシピは、ちゃんと存在したのです。
正直な注意点:つなぐと誤差もつながる
ひとつ、誠実に書いておきます。AIをつなぐと、それぞれの誤差も一緒に伝わっていきます。
そこで今回は、AIが出した答えを「本当の計算式」で答え合わせしました。推奨レシピは予測81点に対して実際は78点。予測で70点以上の候補(59通り)でも、ずれは平均1.8点にとどまりました。この実演の目的には、つないでも十分な精度です。それでも、誤差はゼロではありません。
もっと分かりやすい例が、AIの予測でVOCを5 g/L以下まで攻めた解です。品質の予測は47.8点。推奨レシピの81点から一気に落ちます。ゼロに近づけようとすると崖がある、ということです。そしてこの解では、AIが示す予測の幅が「38点から57点」と極端に広がっていました。AI自身が「この辺りはデータが足りず、自信がない」と告げていたわけです。点の予測だけを見て走り出していたら危ないところでした。
崖の理由は、VOCの出どころにあります。「VOCを動かす影響の9割は共溶剤」というのは、配合を広い範囲で動かしたときの話です。推奨レシピから共溶剤を完全に抜いても、答え合わせで約9 g/LのVOCが残り、そのうち約8.9 g/Lは界面活性剤の分です。そこからさらにVOCを下げるには、品質を支えていた界面活性剤そのものを削るしかありません。しかもこの解のVOCは、AIの予測では3.5 g/Lでしたが、答え合わせでは5.4 g/Lでした。5 g/Lという目標に対して、数g/Lのずれは無視できない大きさです。
だからこそ、データが少ない工程には、自信の度合いまで出せるガウス過程回帰のようなAIを置くことが大切になります。幅が広がっている場所は「ここは実験を足すべき」というAIからのサインです。上位の候補はあくまで有望株。最後は少しの確認試作で締める。それでも、あてずっぽうの試作を繰り返すのとは比べものにならない近道です。
同じ枠組みは、分野を越えて効く
この「レシピ → 途中の性質 → 最後の品質」という構造は、印刷だけのものではありません。たとえば半導体や電子部品を作るスクリーン印刷でも、導電ペーストの配合がペーストの性質を決め、それが印刷条件と組み合わさって、線の細さや膜の厚さ、電気抵抗、歩留まりを決めています。求められる価値は環境ではなく性能ですが、構造はまったく同じ。同じ連鎖解析がそのまま使えます。
工程が数珠つなぎになっている現場なら、この考え方はどこでも武器になります。
まとめ:分断されたデータのままで、始められる
この例が示すように、工程ごとのデータが別々の場所に分かれていても、連鎖解析は共通する途中の性質(今回はインキの性質)を介して、それらをつなげます。要点は次のとおりです。
- 工程ごとのAIを「途中の性質」でつなげば、通しの記録がなくてもレシピから最終品質まで見通せる
- 途中が見えるから、不良の原因がどちらの工程にあるかを切り分けられる
- 逆算すれば、環境と品質とコストを同時に満たす候補を見つけられる
- ただし誤差もつながる。自信の度合いごと引き継ぎ、最後は少しの確認試作で締めるのが正解
あなたの現場にも、部門ごとに眠ったままの実験データや製造ログはありませんか。それは、つなげば宝になるデータかもしれません。
Multi-Sigma®なら、この連鎖解析をノーコードで実行できます。CSVファイルをアップロードして、マウス操作で工程をつなぐだけ。プログラミングも環境構築も要りません。自社の工程が連鎖解析でどう診断できるか、「通しの記録が無くても」まずはお気軽にご相談ください。
本記事の図表・数値はすべて、物理的にもっともらしい関係式から作った人工データによる例示です。実在の製品・顧客の実測値ではありません。
エイゾスでは多数の共同研究を行っています。例えば、本ブログ取り上げたような包装フィルムの印刷条件と品質の関係性を予測したい、望ましい品質を得るための印刷条件を探索したい、といった画期的な分析の共同研究を希望される場合は、まずはこちらのリンクから共同研究についてご相談いただければと思います。
>共同研究をご相談されたい方はこちら
また、エイゾスではコンサルティングサービスも提供しています。本ブログで取り上げたような包装フィルムの分析だけでなく、応用的な対象として半導体や電子部品を作るスクリーン印刷など、AI連鎖解析機能を用いた分析を行いたいといったご要望がございましたら、エイゾスのコンサルティングサービスをご利用いただければと思います。まずはこちらのリンクからエイゾスのコンサルティングサービスについてご相談いただければと思います。
>コンサルティングについてご質問のある方はこちら
機械学習を使った分析や予測が日常的に行われる今、協調フレームとしてのMulti-Sigma®の役割は増すばかりです。
『どのような場面で活用できるのか』をもっと知りたい方や、実際の利用シーンを見てみたい方は、是非一度お気軽にご相談ください。
In a world where machine learning-based analysis and prediction are becoming everyday practices, the role of Multi-Sigma® as a collaborative framework is more crucial than ever.
If you're interested in learning more about how it can be applied or want to see real-world examples, feel free to contact us.